刺激と寛容についてのメモ
ホリエモンが「電車の中で赤ちゃんが泣いてうるさいときは舌打ちぐらいしても許される」的なツイートで炎上している。
あまりに過激な主張に驚いたが、よくよく読むと、「赤ちゃんだからといってうるさくて当たり前、と放っておく親はどうなの?」という感情からきているようで、あまりに権利を主張しすぎる極端に非常識な親に怒っているようにも読めたので若干納得した。若干ですが。
で、ホリエモンのツイートの中に「赤ちゃんがうるさければ睡眠薬飲ませればいい。アメリカではそうしている」という一説があった。まじかよ、それができるなら、手段としてはアリなんじゃない?と思ってFBに書いたら、妻が医者という友人から、リスクが高すぎる(呼吸が止まることもある、など)のでやめたほうがいい、と教えてもらった。
子供がいる親は「鈍感力」が必要だと彼はいう。
とにかく、誰もが刺激を過剰に得ている時代だと思う。たとえ周囲の環境が静かでも、スマホやテレビに過剰な刺激があふれている。刺激に対して鈍感にならないと、まともに生きていくのすらつらい時代だと思う。
赤ちゃんが泣くことに対する舌打ちという反応も、舌打ちされたことに申し訳ないと必要以上の落ち込む思う反応も、過激なツイートに対する「炎上」という反応も、刺激に過敏になっているということだと思う。刺激にいちいち反応していては、いまの日本で生きていけない、ほんとに。刺激から逃げるか、意識して鈍感になるか。
繊細でいること自体が自殺行為、みたいな社会ですね。あーあ。
暇つぶしと刺激についてのメモ
ひっきりなしに訪れる緊張と刺激。ストーリーに矛盾はたくさんあったが、強制的に襲ってくる緊張のまえに、考える暇が与えられなかった。面白いかどうかを感じる以前に、続きを見ないと眠れない、半端な状態では終われない緊張感を覚えた。
「あさイチ」がだいすきだあああああああ
「はなまるマーケット」来年3月で終了 「あさイチ」に食われた ― スポニチ Sponichi Annex 芸能
そういえばあさイチが始まってからはなまるを観なくなった。岡江さん好きなんですが。
でもあさイチすごいんですよ。朝のバラエティではタブーとされてきた(ような気がする)微妙な問題を、ぼかしたり逃げたりせず、いつも正面から切り込む。
いじめ問題をとりあげたときも、適当で無難な結論に逃げてなかったし(具体的にはわすれたんですが、その時以来あさいちファンになった)先日放送予定だった(台風で中止)「性風俗で働く女たち」というテーマとか、きょうだって女性の生理を正面から取り上げていた。
意見が割れそうなこととか、なんとなくタブー視されていたことに対して、通り一遍の無難な結論に逃げずに、掘り返して掘り返して取材して伝え、有働アナといのっちも、逃げずに正面からコメントする。かっこいいなーと思います。自分も情報発信者の1人として、こうあらねばなーと。
番組開始当初は「V6が司会の朝の番組って大丈夫か!」などと思っていたのですが、本当に見事な番組だとおもいます。厳しい視点で構成された特集を観るたびに背筋が伸びます。大好きだああああああああああああああああ!
時代遅れは丸もうけ
いまさら「のだめカンタービレ」にはまりました。
実家に漫画があって、読み直したら、はまった!
で、自分の家にも漫画がほしいな、と、Amazonで中古価格見たら、全巻セットでも2500円なんですね。1巻100円ぐらいだ。安い・・・!で、CDも聴きたいなと思ったら、これまた数百円で売ってる。
一世を風靡したヒット作は、時代遅れになると、在庫がだぶついて激安になるのですね。
のだめも漫画の買い取り価格は1冊10円にまで落ちているそうで(←Facebookでおしえてもらったまめちしき)
ブームのまっただ中ですべて新品でそろえていたら、5倍ぐらいのコストがかかったと考えると、時代遅れってなんてお得なんだろう!!
これからも、人から2歩、3歩遅れて生きていきたいと思います。
あ、でも半沢直樹はドラマ放送中に定価で買いました・・・。もっと遅れなくては・・・
はてぶはコメント欄なのかしら??
前回の記事
iPhoneを手放したらあまりの所在なさにびっくりした - ゆかたんブログ
の反響をみてみよー、と思ってコメント欄をみにいったら行ったらなにもなかった!コメントゼロ件!
あれま、と思ってはてブをみてみたら、いろいろかいてあった!ありがとう!
私へのメッセージとおもわれる内容もコメント欄じゃなくてはてブにかいてあって、なんでー?って思いました。コメント欄なら返信できるのに。
この一件で、はてなブログのコメント欄って何なんだろう? はてブがコメント欄がわりなの??って不思議におもいました。ブログ主へのメッセージならはてブじゃなくてコメント欄に書いた方が伝わるのにな。。。
まぁたぶん、それがわたしへのメッセージっぽく見えたのは気のせいで、わたし以外の人に見せたいコメント、だったんだろうけど・・・
iPhoneを手放したらあまりの所在なさにびっくりした
これまでドコモのガラケーとソフトバンクiPhoneの2台持ちだったんですが、ドコモでiPhoneが出たのでドコモiPhoneに機種変すべく、ソフトバンクiPhoneを解約しました。
ドコモのiPhoneが入荷2週間待ちなので、手に入るまでガラケー生活です。ガラケーは音声通話とメールだけです。
ひさびさに、6年ぶりぐらいにiPhoneを手放して、あまりに所在なくてびっくりしました。電車待ちとか、ふっと空いた時間に、何をしていいかわからない!!
iPhone持ってたときは、2chかFacebookかTwitterで忙しかったのに。
iPhone持ってないと、圧倒的に所在ない!
わたし、スマホ以前って電車の中で何してたんだっけ・・・
あと、初めての場所に行くのがこわい。
GoogleMapなしで外にでるなんてこわい。
何か買うときもこわい。
ちょっと高いものは、ネットで価格比較とかレビュー見てから買う・・・ってことができないのね。
自分が思っていた以上に、スマホに依存してたんだなーと実感しました。自分で何かを探したり判断したりリスクを負う力が鈍っているような気もした。
とりあえず、外出時には本を必ず持ち歩こうと思いました。
この世は生きるに値するんだ
宮崎駿監督の引退会見に伺い、全文書き起こし記事を書きました。
「この世は生きるに値するんだ」 「風立ちぬ」の後をどう生きるか 宮崎駿監督、引退会見全文 (1/9) - ITmedia ニュース
見出しにもなっていますが、「この世は生きるに値するんだ」ということばが、頭にこびりついています。
基本的に子どもたちに、この世は生きるに値するんだということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないというふうに思ってきました。それは今も変わっていません。(3Pめ)
「この世は生きるに値するんだ」ということを実感してそれを伝えることはすごくむずかしい時代になっていると思います。いまの子どもにキラキラした未来を残していてあげられるのか。考えて逃げたくなるような時代であると思います。
でもふと考え直し、昭和16年にうまれた宮崎駿さんが生きてきた時代は、さて、未来がずっとキラキラ希望にあふれていたかというと、そんなことはない。宮崎さんの言葉をかりると「たいへんな」時代でした。
特に「風立ちぬ」をやっている間じゅうよみがえってきたのは、モノクロ時代の日本の映画です。昭和30年以前の作品ですよね。暗い電気の下で生きるのにたいへんな思いをしている若者やいろいろな男女が出てくるような映画ばっかり見ていたんで、そういう記憶がよみがえるんです。(8Pめ)
経済的に豊かだったバブルの時代も、「頭にきていた」。宮崎監督が生きてきたなかで、よい時代とか、楽に生きられる時代など、まったくなかったのかもしれません。
ジブリを作ったときの日本のことを思い出すとですね、浮かれ騒いでる時代だったと思いますよ。経済大国になって日本はすごいんっていうふうにね、ジャパンイズナンバーワンとかね、そういうことを言われていた時代だと思うんです。
それについて僕はかなり頭にきていました。頭にきてないとナウシカなんか作りません。(6Pめ)
それでも「この世は生きるに値するんだ」と伝えたい、そう信じられる理由はどこにあるのか。それは論理ではなく、「僕が考案したもの」ですらなく、「繰り返し繰り返し、言い伝えられてきたことを受け取っただけ」だと宮崎さんはおっしゃいます。
言い伝えてきた方々も「本当かな」と思いながら、それでも言い伝えていくんだと。
僕は、自分の好きなイギリスの児童文学作家で、もう亡くなりましたけど、ロバート・ウェストールという男がいまして、その人が書いたいくつかの作品の中に、本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか、満ちているんです。この世はひどいものである。その中で、こういうせりふがあるんですね。「君はこの世に生きていくには気立てが良すぎる」。そういうふうに言うせりふがありまして、それは少しもほめことばではないんですよ。そんな形では生きていけないぞお前は、というふうにね、言っている言葉なんですけど。それは本当に胸打たれました。
つまり、僕が発信しているんじゃなくて、僕はいっぱい、いろんなものを受け取っているんだと思います。多くの書物というほどでなくても、読み物とか、昔見た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し繰り返し、この世は生きるに値するんだってふうに言い伝え、「本当かな」と思いつつ死んでいったんじゃないかってふうにね、それを僕も受け継いでいるんだってふうに思っています。 (8Pめ)
これが「風立ちぬ」のポスターに書かれている「生きねば」につながるんだな、と思うとそんなことはなくて。
せりふとして「生きねば」とかいうことがあったから、多分これは鈴木さんがナウシカの最後の言葉をどこかから引っ張り出してきて、ポスターに僕が書いた「風立ちぬ」の字より大きく「生きねば」って書いて、「これは鈴木さんが番張ってるな」と僕は思ったんですけど(笑)、そういうことになって、僕が生きねばと叫んでいるように思われていますけど、僕は叫んでおりません(笑)。(8Pめ)
答えがないこと、答えがないと分かっていることをひたすら掘り続け、迷いつづけ、悩んで苦しんで「ややこしく」生きながら、それでもこどもたちには「この世は生きるに値する」と伝えなくてはならない、それを伝承しなくてはならないと、わけがわからないと思いながら、強い風に吹き付けられながらも、大人としてしっかりと立とうとしているんだなと、そんなふうに思いました。
ノルシュテインは友人だ、ピクサーのジョン・ラセターは友人です。イギリスのアードマン(Aardman Animations)にいる連中も友人です。みんなややこしいところで苦闘しながらいろいろやっているという意味で友人です。競争相手ではないと僕はいつも思っているんですけど。(6Pめ)
今に絶望するのは簡単だけれども、それでも「この世は生きるに値する」と伝えられるように、「ややこしいところで苦闘しながらいろいろやって」生きていかないとな、と、思いました。